慶長11年(1606年)、椹で作った盆が始まり。

たまたまうち割った椹のへぎ目の美しさに感動した高山の大工の棟梁、高橋喜左衛門がこれを風雅な盆に仕上げました。茶道宗和流の開祖、金森重近に献上したところ、その豊かな趣が大変気に入り、御用塗師の成田三右衛門に、素地の美しさを生かして塗上げるよう命じました。

成田が自然美を生かし、透漆(すきうるし)でたくみに塗り上げた盆は、茶道の名器「飛春慶」の色に似ていたところから「春慶塗」と命名されたと言われています。

飛騨高山・・・古い町並みを残し、「小京都」とうたわれる観光都市。


宮川によって東西に二分される高山は、天領(江戸幕府の直轄の領地)時代の文化が今なお、あちらこちらに残っています。川の東には200〜300年の歴史ある古い民家が軒を連ね、河畔では朝市、京都の東山になぞらえた寺町などがあります。

西には、高山陣屋、飛騨国分寺といった国指定史跡が点在し、飛騨を代表する合掌造りの飛騨民俗村もあります。
豊かな緑に抱かれた「山都」「小京都」の名にふさわしい、長い歴史の香りに包まれた町です。


素地の木目の美しさを最大限に生かした春慶塗。

1692年から177年間の天領時代に誕生し、成熟した飛騨文化。高山陣屋で25代にわたって代官、郡代による天領政治が行われたことは有名ですが、この時期、絢爛豪華な屋台をはじめ、一位一刀彫など独自の文化が一斉に芽吹き、開花していきました。

飛騨春慶塗は、その代表とも言える技法のひとつです。「春慶は木地つくりで決まる」と言われるように、「塗り」の高度な技術もさることながら、その前段階である木地つくりに、伝統の技が色濃く残されています。

木地つくりとは、割目(わりめ・木を割ったきわ)やへぎ目(木を削った面)といった木の持つ自然の模様を最大限に生かして、盆や器などに加工する作業のことです。上に塗る漆が透明なだけに、ごまかしややり直しがきかず、「木地師」の腕と良質な木材に負うところが大きいとされています。

木地師には、割目師、へぎ目師、曲物(まげもの)師、挽物(ひきもの)師がいて、それぞれ得意とするものを専門に行います。割目師は板を割り、それを組み合わせて板物(いたもの)や角物とします。へぎ目師は板目を生かして角物を、曲物師は板を曲げて丸い器にし、挽物師はロクロでくりぬいたものを手がけます。いずれの工法も、熟練した技術と慎重さが必要とされています。
素材となるのは、色が美しく緻密で光沢がある桧が主ですが、樹齢250年〜300年の木でなければ美しい漆器は生まれないため、年々入手が困難になっています。

「春慶塗には飛騨の伝統工芸が集約されている」という言葉通り、春慶塗は塗装技術だけでなく細工職人たちの腕があって、初めて成り立つものなのです。

木の肌を生かした自然志向のシンプルなデザイン。

高山城主であり、茶道宗和流の開祖でもあった金森重近の命によって生まれた春慶塗。槙のへぎ目の美しさを損なわないよう、塗り上げられたのがそもそもの始まりといわれるほどですから、「木地つくり」をそのまま生かす透明な漆を使う塗りの行程が大きな特色となっています。

まず、完成した木地に磨きをかけ、塗りムラを防ぐために目止めをします。黄あるいは紅で色付けしてから、下地として、大豆のつぶした「豆汁(ごじる)」を2〜3回塗ります。漆に荏胡麻の油を混ぜたものを木地に摺り込みます。これが「摺(すり)漆」です。さらに生漆を数回摺り込み、十分乾いたところで、透漆(すきうるし)を上塗りし完成です。

現在では、目止めや下地にウレタン樹脂塗料を使った技法も開発されています。ウレタン樹脂は耐水性にすぐれているため、水を使う食器等の丈夫さに貢献しています。


当初は茶器が主流でしたが、天領時代になると家具や食器などの高級品が作られるようになりました。以後、家内工業として発達し、質・生産量ともに向上。江戸末期から明治にかけて、重箱などの角物や、茶道の水指・水注などの曲げ物が作られ、線と円で立体的な美しさを表現する作品が次々と生まれました。
県外への販売も盛んになり、職人の数も増え、問屋が産地の中心となって販路を広げ発展していきました。

素材の良さを最大限に生かすため、デザインはいたってシンプル。それでいて、軽やかな風合いと気品の高さを漂わせています。現在も、「軽い」「色が美しい」「木の肌が自然志向の感覚にフィットする」と、再び注目を集めています。

光を当てると漆を通して木目が黄金色を放ち、大切に使い込むほどに、その光沢がますます増していく。これが、時代を超えて人々に愛される春慶塗の輝きなのでしょう。


 
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